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太平洋戦争考察

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検証・日本本土決戦



太平洋戦争があのまま続けば必ず発生した日本本土決戦。ここではその可能性を研究しましょう。

米軍は二段階で日本本土に上陸する計画だったと戦後に明らかにされています。
まず『オリンピック作戦』として1945年11月に南九州に上陸、および同時期に四国に陽動上陸をおこないます。
そして1946年3月に『コロネット作戦』として関東に上陸します。
これによって日本の政治中枢を占領し、当時の大日本帝国の政治指導部を打ち倒すことによって戦争を終結させようとしたのがアメリカのプランでした。

この本土決戦において日本は新兵器『烈風』や『秋水』等を用いながら米軍を迎撃し撃破するというのが仮想戦記におけるプランであったりします。それでは歴史上において本当に米軍が南九州、および関東に上陸すればどのような作戦展開になったでしょうか。

まず『オリンピック作戦』から見ていきましょう。米軍は『オリンピック作戦』として鹿児島県に上陸して南九州の制圧を試みます。一方高知県にも上陸し、こちらは陽動でしばらく日本軍と交戦した後、『オリンピック作戦』が一段落した時に撤退します。

何故アメリカ軍は、四国を占領し続ける意図が無いのに四国に上陸する作戦を立てていたのでしょうか。おそらくこれは、アメリカ軍が四国に上陸することによって日本軍は援軍を近畿・中国地方から海路四国に送り込もうとする。これを海上で撃破することによって、日本軍の戦力弱体化を企図したものであると考えるのが一番自然でしょう。
この展開は太平洋戦争におけるそれまでの戦闘でも発生しました。日本軍はガダルカナル島やニューギニアで無謀な海上輸送作戦を強行し、その輸送船を米軍が撃沈することで、日本軍はかなりの陸上戦力を海上で無為に消耗しています。さらに米軍がフィリピンのレイテ島に上陸した時にも、日本軍はオルモック湾輸送作戦と称した海上輸送作戦を企図し、レイテ島に輸送船で援軍を送ろうとしてその輸送船を撃沈され、同じようにかなりの戦力を消耗しています。
米軍は過去の戦訓を分析した上で四国に上陸した際にも日本軍は必ず増援を四国に送り込んでくると読み、その四国への増援を海上で撃破することを企図した。それが四国陽動上陸作戦の根幹であると考えられます。だからこそその援軍を海上で撃破した以上はそれ以上四国に留まる必要はなく、適当な時期に四国から部隊を撤退させることを計画したと裏事情を読めば、一見不可思議なこの四国上陸作戦の内容を矛盾なく読みきることができます。
そしてそれは同時に、関門海峡という狭い海上では、海上撃破しきることが困難であるという米軍の判断があったことも示唆します。

それでは南九州上陸の『オリンピック作戦』の展開はどうなったでしょうか。南九州上陸作戦も、作戦を一目見ただけでは奇異に感じられる部分があります。それはこの『オリンピック作戦』においては九州南部を占領するだけで、九州全土は占領しないというものです。日本の支配地域を九州北部に残すということがこの『オリンピック作戦』の企図の範囲であったわけですが、この狙いはどこにあったのでしょうか。
主にその狙いは2つあったと考えられます。
まず1つは、九州南部に存在する日本軍に九州北部までの退路を残すことによって、死に物狂いの反撃をさせないという点。硫黄島では日本軍は死に物狂いの抵抗をし、それによって米軍が多大な損害を被ったことが知られています。日本の本土決戦における日本軍の防衛能力のifに関する希望も、多くはこの硫黄島での戦いの実績がその根拠となっています。
しかし硫黄島の摺鉢山で日本軍が死に物狂いの抵抗をして米軍を苦しめたのは、あくまで日本軍に退路が無かったからの話。
硫黄島の戦いより後におこなわれた沖縄戦では、日本軍はかなり雑な防衛をしています。まず防衛の布陣からして最後の一兵まで戦いきるという覚悟がありません。米軍が沖縄の中部に上陸してくる、その読みは的中しましたが、日本軍はその後、首里のある南部に向けて米軍を誘導する布陣を敷いています。そして沖縄住民をマラリア等が発生する北部に疎開させようとしたとして、このことは沖縄が戦後日本に対して反感を持つ理由の一つとなっています。このことの人道上の問題はここでは措くとしても、もしも日本軍が本当に死に物狂いで米軍の上陸に最後の一兵まで抵抗しようとするのであれば、沖縄北部に向けて米軍を誘導すべく布陣を敷くべきでした。沖縄北部であれば人里がほとんどない山間部で、防衛戦闘に有利な地形です。また沖縄の現地の案内を受けてうまくマラリアが発生しやすい場所を避けて布陣することができれば、米軍は上陸した時に不案内な現地に突入してマラリアの大流行を招き、それによって攻撃が遅滞することもあり得ました。また北部に布陣すれば南部の沖縄住人を疎開させる必要も無く、それは戦闘前の陣地構築資材の配分でも有利だったでしょう。しかし実際には日本軍はこのように防衛戦闘に有利な沖縄北部の山間部を選ばず、人口の多い南部を防衛ラインに選んでいます。平時であれば人里に近いところは何かと便利ではあるでしょうが、それは戦時において米軍が上陸してきた時に最後の一兵まで戦いきるという覚悟とはかけ離れた陣形でした。人口の多い沖縄南部に布陣しておいて、沖縄住人には北部に疎開するように呼びかけたというのでは、防衛作戦に臨む日本軍の本気度に疑念を持たざるを得ないでしょう。史実の戦闘においては日本軍は首里陥落後も防衛戦闘の継続を企図しますが、それはあくまでも首里が陥落して追い詰められた後の話。まだ退路がある段階では、日本軍は防衛作戦計画の段階からきわめて杜撰な戦い方をしています。
『オリンピック作戦』においても米軍は日本軍との戦闘でこのような戦訓を学び、それに応じた作戦を立案したのでしょう。したがって米軍は九州に存在する日本軍部隊を完全に追い詰めきる九州全土の占領ではなく、九州南部の日本軍部隊が九州北部にある退路をアテにして雑な戦い方をする、九州南部だけの占領に留めようとしたと考えられます。
さらに九州南部の占領を済ませて『オリンピック作戦』の当初の米軍の作戦目標を達成したとします。米軍はこの後、九州南部には防衛作戦に十分な戦力だけ残し、後は九州南部の飛行場を拠点としてB-17やB-24等の航空部隊が西日本一帯、近畿地方や中部地方まで含めて爆撃していきます(B-17やB-24の航続距離であればそれくらいは余裕で攻撃可能圏内に入ります)。そしてその一方、それ以上の陸上攻勢戦力は関東地方への上陸のために蓄積していきます。
九州北部の日本軍の残存支配地域および残存戦力は九州南部の米軍占領地帯と向かい合う形になります。前線は比較的平穏を保っていますが、九州南部の飛行場からは米軍の爆撃機が日本の各地に爆撃を加えています。この状態で考えられることは日本軍が九州北部から南部に向けての奪回作戦を発動することでしょう。しかしその勝算はどれほどあるのでしょうか。
日本軍の末期の防衛作戦における勇猛果敢さは、時に日本でも過去を賛美する文脈の中で賞賛されることがあります。硫黄島の戦いは特にその金字塔と言えるものでしょう。しかしこれは全て防衛作戦における話。攻勢作戦については特攻機が飛び交う太平洋戦争末期においても多大な自滅を招く作戦しかおこなえていません。沖縄戦においては中飛行場奪回作戦の失敗が有名でしょう。米軍は沖縄に上陸した直後、中飛行場を早々と占領します。この中飛行場を活用した米軍航空戦力の活動を警戒した大本営は、中飛行場奪回のための攻勢作戦を沖縄防衛部隊に指示しますが、作戦は失敗して日本軍は多大な損害を出します。この一連の作戦は沖縄防衛戦の中でも戦力を大きく消耗した一番の失敗であるとされていますが、太平洋戦争末期における日本軍の攻勢作戦能力はこの状態でした。
米軍もまた、沖縄戦におけるこのような戦訓を学び、日本軍のこのような反撃作戦を招こうとしていたのでしょう。そのためには日本軍が反撃作戦をおこなうための足場が必要であり、その関係で九州北部をあえて占領せず残しておいて、日本軍が九州北部に部隊を集結させ九州南部の米軍の防衛ラインに突撃を仕掛けてくるのを待ち受けていたと考えられます。これが『オリンピック作戦』において米軍が九州南部のみを占領することを企図した狙いの2つ目であると考えられます。
日本軍がこの米軍の手に乗らないようにするためには、米軍が九州南部の占領を済ませてそれ以上の攻勢作戦を手控えるようになった後も、日本軍部隊は反撃作戦に出ないで隠忍自重し続けることでした。しかし実際には前述の通り、米軍は九州南部の飛行場を基地として日本の各地に空襲を繰り返している状況です。この状態を放置して、戦力を九州北部に残したまま反撃せずに状況を見守るだけということを当時の日本軍が遂行しきれたのでしょうか。

もしもここから日本軍がさらなる反撃を企図することになるとすれば、それは米軍占領地域の日本人住民が反乱を起こすことに期待することになります。しかし実際にはそのような活動がどれほど現実的な問題として期待できたでしょうか。米軍は沖縄等の占領地域の住民に対して、十分な飲食物を提供していました。そのために沖縄においても住民の反乱や抵抗運動は起きていません。日本軍が攻勢作戦をおこなった場合には、何しろ日本国内でも配給制度等で十分な物資供給ができていない状態でしたから、占領地域においても十分な物資提供ができず、そのために現地住人・捕虜の反感を買って、挙句の果てに、南京大虐殺だとかバターン死の行進だとか喧伝されることになります。実際には数万人とか数十万人の死者が出るようなことは日本軍もしてないのですが、日本軍が現地に十分な物資供給をおこなわなかったので、そのような宣伝をされることになってしまったのです。一方の米軍は占領地域において十分な物資供給をおこなっていましたから、その占領地域において日本住民による武力活動は期待できないでしょう。したがってやはり、『オリンピック作戦』における九州南部への日本の反撃は無理があることになります。

『オリンピック作戦』が完了した後、米軍はいよいよ関東地方に部隊を上陸させる『コロネット作戦』を発動することになります。この米軍の関東地方上陸に備えて日本軍がおこなった最大の対策は、長野県の松代に大本営を移すことでした。戦う前から既に撤退作戦をおこなうつもりなのは、既に記述した通り太平洋戦争末期の日本軍の常套手段です。本当に死に物狂いの戦いを始めるのは、本当に日本軍に退路が無くなった時です。それでは松代に本部を移したとして、その後の日本軍と米軍の戦略はどのように推移するでしょうか。
一説によれば松代も危なくなった後は日本軍は天皇家を満州に逃がしてそこで防衛作戦をおこなうつもりだったとも言われていますが、実際問題としてはソ連が対日宣戦布告をして満州一帯を早々に占領している状態ですので、おそらくは米軍が関東に上陸する1946年4月頃には中国大陸・朝鮮半島ともに日本軍は実質的な作戦拠点を喪失しているでしょう(満州に逃げるつもりだったと言うのは、おそらく8月8日のソ連の対日宣戦前に軍上層部で考えられていたに過ぎない構想であると思われます)。台湾に逃げる考えも無いわけではないですが、南九州・沖縄は米軍の支配下ですので現実的には台湾までの交通路を確保することもできないでしょう。結局のところは日本の本土の外から出ることはできないので、日本軍司令部は松代か、松代を撤退することになっても日本のどこかを最終防衛拠点として戦うことになります。それでは米軍はそこまで追いかけて日本軍の殲滅を企図することになるのでしょうか。
実際には米軍は関東に上陸した後、日本の行政機能の占領に取りかかるでしょう。日本軍上層部も松代には天皇家や軍の最高司令部の機能を移転することは考えていましたが、日本の行政機能、つまり大蔵省や内務省等の日本の官僚数万人までは、松代の洞窟陣地の中に隠しきり移転しきる能力を有さなかったと考えられます。そのような官僚の移転をおこなえる余力があるなら、むしろ軍需工場を松代に移転しきることを優先して考えたでしょう。この他、総理大臣以下主要閣僚は松代に移転したでしょうが、数百人の国会議員については松代に移転したところで何かおこなう仕事があるわけでもなく、おそらくは他の行政機能と同様に関東地方に残す結果になったでしょう。つまり米軍は日本の行政能力と基本的な国会機能を早々に手中にすることになります。以後、軍事以外の日本の内務行政については米軍が管理することになります。この行政能力は日本国内における選挙の実施、財務の管理、道路や鉄道・港湾等の交通機関の管理、農業・漁業等の食糧生産・食糧流通の監督、警察業務や裁判等の司法機能の維持等を含みます。また場合によっては、日本の陸軍省・海軍省の機能も松代に移さないかもしれません(それよりは軍需工場をできるだけ多く移転することを優先したでしょう)。その場合には日本軍の人事関係の所管能力も米軍の管理下に置かれることになります。後は米軍がその行政機能を利用して日本の統治を試みることになるでしょう。その場合において松代の大本営はいわば地方軍閥に過ぎない存在となったでしょう。米軍としても、日本の死に物狂いの反撃を受けるより、ソ連等に対して日本を代表する東京の政府が連合軍との講和に合意したと通告する名目を選ぶ方が、ソ連軍の対日軍事行動を抑止することにもつながりますので、そちらを優先させたでしょう。後は米軍は関東の占領地域に食糧等の物資を供給して行政機能を提供しつつ、抵抗する日本軍に対しては積極的攻勢に出ずに防衛ラインを維持することに終始して、後は各地方ごとの降伏かあるいは食糧不足による飢餓かという選択を取らせることになったでしょう。

総合的に見て、やはり本土決戦において仮想戦記に見られる大逆転の作戦に至るというのは無理であるようです。




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